日々、積笑

笑って過ごせる毎日

シンプルに考える

Posted by yokka on   0  0

震災の日。
震災時の映像が繰り返しニュースで流れる。
昨年までは映像を直視できずにテレビを消していたが、
今年はだいぶん見ることができた。息苦しいような喉の奥に
固まりでも詰まったかのような感じはしたが。

インタビューされた女性がコメントを述べた。
「原発の事故さえなければ復興できたでしょ。」

お亡くなりになった方々はほとんどが津波が原因だったと聞く。
家族を亡くし住み慣れた家を流され
それでも前を向いて生きなければならない人達に
故郷に戻れないと言う現実が続く。

戻れたとしても、事故の影響は多岐に渡り、
何が正しいか、何が安全か、誰の責任か、今後どうなるんだ。
電気は必要か否か、代替電力はどうするんだ。
色んな思いが複雑になって、お互いが疑心暗鬼になり
本来一致団結して復興に向かうはずが、対立する構造になる。

もし事故が起きなかったならば。

住み慣れた地域の人達ともう一度力合わせて頑張ろうという気持ちに、
全国の人達ももっとシンプルに応援の力を発揮できたであろう。

食べ物を安全かどうかと不安になりながら検査せずに、
もう一度田畑を堂々と耕す気持ちになれるだろう。
子供を病気にならないかと不安にかられて
検査に連れて行くこともないだろう。
空気中のモニタリングデータを見ながら、
窓を閉めたりマスクをしたりと神経質にならずに済んだであろう。
そして何より住み慣れた場所に戻れないなどということはなかっただろう。

転勤族で社宅暮らしの私でさえ、あの日色々な近所の方に
助けてもらい支えられていたから安心して頑張れた。
長く地元でコミュニティを作っていた方々にとって、
地域社会を失うことの重大さは計り知れない。

もし事故が起きなかったならば。

地震や津波が起きなかったならば命を落とす方もいなかっただろう。
ただ、その後辛く悲しく寂しい5年を過ごして来た方々の
希望を閉ざしたのはなんだったのか。

シンプルに考える。
もし事故が起きなかったならば。

悲しいかな、地震や津波はまた日本のどこかでいつか起きるだろう。
起こさない術は現代にはない。
今後、自分自身や自分の家族や親しい友人達に同じことが
絶対に起こらない日本に、あの震災から変わったんだろうか。

シンプルに考える。
なぜ家族や家や仕事や地域社会を失い、
そして希望までも奪われなければならないのか。
また同じことを繰り返すのか。

もし子供達が、なぜ家に戻れないのか、どうして病院で
検査が必要なのかと問うたら、きちんと答えられる社会に
向かっているだろうか。

震災で大変辛い思いをした人達がいたから、
日本は考えを変えたんだよ、と
答えられる社会になったらいいのに。

事故の影響や対策、詳しいことは何が正しいのか、
私には5年経ってもますますわからない。
そして、辛くても頑張っている人達が
生きて頑張ってきてよかったと思える社会って
どうあるべきなのか。わからない。

だからこそ、私は自分も含め生きている人の未来を
考える。考える。考える。

5年前の夜。停電して真っ暗な駐車場で夜空を見上げたら、
見たこともない数の星が天の川のように瞬いていた。
人は亡くなったらお星さまになるというのは本当だと思った。

お亡くなりになった方々には、どうか安らかにと
あの日の星空を思い出して祈る。

色々言って行動はできていないが、
唯一それが私なりの震災を忘れないという意思だ。

防災の日

Posted by yokka on   4  0

今日は防災の日でしたね。
88年前、関東大震災で多くの犠牲者を出したことにちなんでいるそうです。
私も防災の日ということで、改めて我が家の防災グッズのチェックをしました。

とりあえず、札幌に来てすぐに揃えたのは、
予備の飲料水と、携帯用簡易トイレ、サバイバルシート(寒さ、暴風、防水対策用)、
お湯を入れたら食べられる保存食、カセットコンロ用のボンベ。

水とボンベはスーパーで、その他はいつも行ってる山用品のお店で揃えました。
ここ数日は近所のスーパーでも、非常用の保存食がたくさん売っていて、
思わず色々買い揃えたくなりましたが、お菓子類は普段に食べちゃいそうなので、
今回は保留。少しだけ買い足そうかなと思ってるところです。

以前から備えていたのものは、
小型のランタン、ラジオ、ヘッドライト、
マッチ、救急セット(主に登山用)、軍手、
ウエットティッシュ(家で使う箱の大きいのと携帯用の小さいの)
防塵用のマスク、通常マスク。

防塵用のマスクは、スノボのワックスを塗るときに必要なので、
揃えておいたものですが、今回は放射能対応に宮城での外出時に使ってました。
ウエットティッシュは、断水の時とても助かりました。

後は、キャンプや登山で使うものは一通りそろっているので、
そういう道具はまとめて一つの箱に入れてあります。
ただ、キャンプ道具類はあくまでも長期的避難に役立つものなので、
すぐに持ち出すものではないですね。

そうそう、地震のすぐ後に買ったものは、
エネループの携帯充電器です。これは、普段でもよく使ってます。
外出先などで、すぐに充電できて便利です。
いざというときに動かない場合もあるので、
普段から動作確認の意味で使用していると、必要な時に確実に使えます。
(ちなみに以前買って持ってた簡易充電器が実際使えなくて困った私達です。)

今回宮城で東日本大震災を体験して思ったことは、
防災の準備として、初期と長期の対策は少し異なるということ。

地震が起きた直後は、とにかく身の安全第一。
「物が落ちてこない。倒れてこない。避難動線に障害物がない。」

おそらく当たり前のことなんでしょうが、
普段から意識していなければ、ついつい便利な場所に物を置いてしまい、
結果邪魔になることもあり、見落としがちなことでもあると思います。

具体的に、我が家でやっていたことは、
家具の転倒防止。テレビの粘着マットもテレビが倒れなくて済みました。
高い場所には重たいものや、割れそうなものは置かない。
玄関周りは、逃げる時に邪魔になるので、物を置かない。
電子レンジなどの大型のものには、滑り止めマットを敷く。
(絶対安全ではないでしょうが、うちの場合、これで棚から落ちずに持ちこたえてました。)

実際に部屋から玄関まで何も邪魔するものがなく、
スムーズに外にでることができました。
ちなみに、家のカギはいつも玄関脇のフックにぶら下げているので、
逃げる時にはすぐにカギを閉めて家をでることができました。

地震で家が倒壊せず、火災も発生しなければ、後は自分の怪我だけです。
怪我がなければ、その後の避難もスムーズにできます。
防災ヘルメットがなくて、スノボ用のヘルメットを手元に置いていたのですが、
あれは素材がヤワすぎて、あまり頼りになりませんね・・・きっと 笑
防災ヘルメットは、準備しなきゃですね。

中長期の避難生活となると、今回痛感したのが、水です。
以前の日記にも書いたかもしれませんが、
水の確保は本当に困難で、しかも大切だと感じました。

今日、テレビを見ていたらビニールのリュックにもなる
水袋を紹介していましたが、水を入れる容器は絶対必要です。
しかも、給水に行かなければならない状況になると、
自分で持てる分量は限られます。それに給水した水は、
飲料水としてそれほど長期の保存ができるわけではないので、
数日使う分を、その都度もらいに行くということが予想されます。

水も食料もどのくらい予備が必要かは、家族構成が異なるので、
各自で分量が違うと思います。

もし今、水道が止まり、いつ復活するかもわからない、
町が地震の影響で買い物ができない、・・・ということを具体的に想定したら、
飲料水、生活用水(トイレ、手洗い)を自分たちの家族分どうやって賄うのか、
そのための準備は何ができるのか、どのくらいの量があればいいのか、
自分の家族を考えることが分量の目安なのではないでしょうか。

ちなみに今回の地震で岩沼では、給水車が来たのは地震があった2日後からでした。
私はすぐに九州に帰省したので、正確な日にちは覚えていないのですが、
水道が復活したのは、かなりの日数が経ってからでした。

今回の東日本大震災もそうでしたが、地震だけ起こるのではなく、
地震とともに、津波、火災、そして今回初めて起こった原発事故と
災害が複合して起こるのが予想されます。

防災は想像力が大事だと思いました。

夜中に災害が起こったら。
冬に災害が起こったら。
家族がばらばらの場所で災害が起こったら・・・。

これに原発の事故も加えると、どこまで想像したらいいのか
わからなくなりますが、よく言われることですが、
災害時に数日自分の家族が避難できるような準備は
最低限必要だと改めて思いました。

そして、連絡手段です。
今回、携帯電話が全く使えないことがはっきりしました。

岩沼では、住んでいたアパートが夫と同じ職場の方が多く、
連絡手段がありましたが、今の札幌では、夫が職場にいたら、
携帯、固定電話が使えないと、私と連絡する手段は
ほぼないに等しいと予想しています。

岩沼では、公共の場所の公衆電話が緊急で使えたので、
札幌でも、もし連絡できたら第1連絡先として、夫も私も関東に住む夫の実家に、
自分の無事や、避難場所の連絡を入れるように決めました。
もし、第1連絡先で連絡が取れない場合は、第2連絡先は九州の方に。

そうすれば、夫の状況も私の状況も実家を介して情報の共有ができ、
夫の実家から九州の私の実家へ、はたまた逆にそれぞれ連絡してもらえば、
お互いに電話1本で情報の伝達ができると考えたからです。

転勤族で親類縁者が近くにいない苦肉の策ですが、どうでしょうか。

後、意外と便利だったのが、40Lぐらいのビニール袋です。
洗濯できないので、洗い物をためておいたり、
いざとなれば、袋を重ねて水を入れて持ち運ぶこともできるし、
ゴミの収集もすぐには再開しなかったので、ゴミも入れておけるし、
原発事故の放射能が心配で、私たちは外で着た上着や洋服、ザック類は、
玄関先で全てビニール袋に入れて、寝室に持ち込まないようにしてました。
放射能に関してはあまり意味がなかったのかもしれませんが・・・。

だから、大きなビニール袋がなにかと役立ちました。
これも常備してます。

災害は、忘れたころにやってくるとよくいいますが、
まだ記憶が定かな今こそ、できる準備はやっておかなきゃですね。

3・16 福岡到着

Posted by yokka on   0  0

毎日出だしが原発関連が続いていますが・・・・
故郷九州の玄海原発再稼働を心配していたら、
気づくと今度は、北海道の泊原発に矛先が向かっていました

とりあえず、海江田大臣が北海道の意見を聞く・・・というところのようですが、
「地元軽視だ」と主張していた高橋はるみ知事が
正しい判断をして、原発稼働に反対してくれることを願います。

私も、今回は少しだけ行動してみました。
首相官邸のホームページに行くとご意見募集という項目があって、
そこに泊原発稼働反対意見を送ってみました。

いつもぶつぶつ文句言ってても、直接行動したことなかったので、
正直、送信ボタンを押すが怖かった。えいっって感じで。
読まれないかもしれないし、何の意味もない行動かもしれないけど、
自分的には、気持ちをを発信できたことが記念すべき第1歩。

そして、北海道庁や知事宛てには、そういうメッセージを送るのがなかったので、
直接関係ないけど、札幌市は市長宛てのメールが送れるので、
それにも泊原発に札幌市としてもっと反対してほしい旨のメールを送りました。

またまたドキドキ。
声をあげるって正直怖い。

これって悪い方に想像し始めると・・・・

誰が原発反対しているのか調べられて、
家族とか本人とかに無関係の逮捕状とか出て、
怖い人が家に来て拉致られて、
これ以上反対するな!とか脅迫されて、
家族の仕事場とかに警察が来て、
家族が仕事を辞めざるを得なくなって、
ネットとかでも実名とか好評されて、
どえらい目にあう。

・・・・ってのが「24(アメリカドラマ)」での展開なんですよね。
(ま、「24」なら、目ざわりな人はすぐに殺されますが。)

ドラマ知恵ですぐこうゆう妄想に走りますが 笑

でも、今回ばかりは、こういう考えを持った市民がいることを
知ってもらえる可能性があるなら、やってみようと思えたので、ポチっと。
だって、北海道好きだしね。それが一番の原動力。

大げさなことができるほど大きな人間ではないし、
勇気も度胸もありんこ並みなので、今の私にできる精一杯のこと。
そして、一人の意見なんてほんと宇宙から見た米粒のようなものだけど、
やらないよりやった方がまし・・・ぐらいの感じで。


今日は、3月16日秋田空港を出てからのできごとです。

********************************

 ( 3月16日 秋田空港を羽田へ向けて出発 )

無事に秋田を出発した。
途中、事故が起こった福島原発近くの上空を通るのだろうか。
そればかりが、気になった。

原発上空は飛行制限が出ているので真上を通ることはないだろうが、
それでも、羽田に向かうからには、全くちがう方向ということはないだろう。

飛行機に乗っていた間のことは、あまり記憶になく、
携帯に事細かくメモしていたのも、秋田空港を最後にほとんど記録してない。
とにかく、原発がこれ以上爆発しませんように、
と必死に祈っていたのは覚えている。

羽田には福岡便への乗り継ぎ時間ぎりぎりに到着したので、
連絡通路をこれまたダッシュで搭乗口に向かったが、
羽田からの便が機材整備遅れていて、しばらく待ち時間があっての搭乗。

12時30分。福岡行きが出発し、やっとこれで福岡に帰れる・・・・と思った。
羽田から2時間かからずに、福岡空港到着。見慣れた景色。帰ってきた。
福岡空港に着くと、すぐに親や友人たちに連絡。

弟と母親が車で迎えに来てくれていた。
スノボウェアに登山靴、大型ザックを背負った私をみて、
違う意味で驚いた感じだったが、こっちはそんなの気にしていられない。

それからは、親戚や友人たちから温かい言葉を沢山もらい、
3月末に引越しの予定が立ち岩沼に戻るまで、福岡でゆっくり静養することになった。

しかし福岡に戻っても着いてすぐは、ほとんど眠れなかった。
興奮と緊張が続いていた。

そんな福岡滞在2日目の夜のこと。
地震から全く連絡を取っていなかった友人から電話がかかってきた。
私たち夫婦の安否を心配しての電話だった。

どの友達のルートとも違う友人だったので、私の状況を全く聞いておらず、
私は地震以後のことを彼女に話し始めた。
夫とも知り合いなので、夫の職場が津波にあい、車が流された・・・と話した。

彼女の旦那さんとも知り合いなので、電話している彼女の後ろで
明らかに酒を飲んでいい感じになっていたその旦那さんも電話に代わると言っている。
旦那さんが電話に出ると

「RaRaちゃん、なになに~、旦那が津波に流されたんだって・・・大笑」

私の頭の中がどっかーん。
まだ緊張状態で、張りつめていた気持ちがブチ切れて、まずは無言で携帯を切る。

夫は隣の部屋で寝ていた。
けれど、気持ちがおさまらない。時間は深夜。

気持ちのやり場がない。折り返し電話をかけなおす。
友達が私の電話だとわかり、電話をとるなり泣きながら謝っている。

「旦那に代わって」とだけ言い、旦那が電話にでると、
「地震のテレビは見てるのか」と問う。
「見ている」と答える。
「どれだけの人が犠牲になっているのかわかっているのか」と問う。
「わかっている」と答える。
「どうせテレビの前で、酒を飲みながら津波の状況を見て笑っているのだろう」と言う。

それからは、私が一方的に相手の無神経さを罵る。
大声を上げ、泣きわめき、罵声を浴びせる。
感情と涙が止まらない。相手は一方的に謝っているが、そんなのでは気が済まない。

「どうせあんたは、その程度の人間だってことよね」

と言って、一方的に電話を切る。
電話を切っても、感情がコントロールできない。大声で泣く。
夫がびっくりして、私の様子を見に来る。だまって私の傍で落ち着くのを待っている。

夫が心配するので、とりあえず、なんとか泣きやもうと冷静さを装う。
もう大丈夫だからと、私は夫とは違う部屋で寝る。
夫が隣の部屋のベッドに入った様子を確認してから、また布団をかぶり声を殺して泣く。

明け方まで泣いて泣いて泣いて。ほとんど眠れなかった。
途中から、自分の意志とは関係なく勝手に涙が流れた。

友人の旦那さんの言葉に腹が立ったのもあったのだが、一番は

「もしかしたら、夫が津波に流されて死んでいたかもしれない」という現実に気付いたからだ。

今まで地震や、原発のことで毎日目の前のことで精一杯で、
そんな想像をしたことがなかった。きっと生きていると信じて疑わなかったし、
事実生きて私の元に戻ってきた。けれど、戻らない可能性があったことを初めて気づかされた。

泣き疲れて少し眠ったのか、
それでも時計を見ると1時間も寝てなかったのだが、
早起きの私が起きてこないことを、親戚が心配して私の様子を見に来た。

目覚めるとまた涙が勝手にでてくる。突然泣きだす私をみて、親戚がびっくりして事情を聞く。
とりあえず、夫も朝ごはんを食べてるから、起きておいでと言われ、
なんとか起きて行くが、夫の顔をみるとまた涙が止まらない。

「○○くん(夫)はちゃんと生きてるから、心配しないで」と親戚が言う。

泣きながら、少しだけご飯を食べるが

「勝手に涙がでて、止まらないんだよ~」と繰り返す私。

「今日は、ゆっくり寝てたらいいよ。」
「涙が出たってことは、安心したってことでもあるから、
 泣きたいだけ、どんどん泣いていいからね。」と夫が言ってくれて、気が楽になった。

思う存分その日は泣き通しで、翌日以降、泣きやんでからも、
テレビで震災の情報を見ると涙が止まらず・・・という、
感情がコントロールできないことがしばらく続いた。

それからは、しばらく携帯の電源を切り、誰とも連絡を取らなかった。
本人は悪気はなくとも、また誰かに傷つけられるのが怖かったからだ。

それでも、しばらくしたら落ち着いて友人とも話せるようになった。
今思えば、タイミングが悪かったとしかいいようがない。
張りつめた気持ち、不安な気持ち、そのど真ん中であんなことが起こってしまったのだ。
今なら、聞き流すことができただろうに・・・と思う。

友人夫婦が不仲になってしまわないかと心配になり、
後日メールして、あの時は私の精神状態がいつもと違ったから、
過剰に反応してしまったと謝った。

その後も気持ちの不安定さは少なからずあった。地震や原発によるストレスのせいだろう。
怒り、悲しみ、不安、恐怖、絶望感、無力感。
色々な気持ちが、時には大きくなり、時には小さくなりを少し前まで繰り返していた。
抜け出せないのだろうか・・・・と思った時もあったが、
今は、こうして冷静にブログに綴ることができるようになった。

夫は生きているし、
私も生きている。

地震後色々な励ましのメールをもらった。

「生きているんだから、亡くなった人の分まで自分の命を大切にしないと」

このメールをもらった時期はまだネガティブな時期で、
素直に「そうだね」と返事できなかった。

生きているのは私で、亡くなった命と私の命は別のもので、
代わりに補えるものではない・・・とその時本当は言いたかった。

今は、少し前向きに「私にできることはなんだろうか」と思える。

まだまだ日本中で大きな地震が起きる可能性が言われている。
今回の地震を体験して、日本にいる限りどこに住んでいようとも
地震は来るものだと思って生活するしかないと感じている。

建物や、地盤のことになると個人ではあらかじめ準備できることは限られるが、
家の中や、普段の防災意識は最低限、自分の身を守ってくれる可能性があると
思っている。

一個人の地震から数日間の出来事を綴ったものなので、
あまり役に立つような内容はないのだが、
自分だったら・・・と置き換えて考えれるようなことが、
もし、あれば幸いだ。

そして改めて、心配し、助けてくれた方々へ感謝の気持ち。

最後に、今回の地震で命を落とされた方のご冥福を祈り、
住み慣れた宮城をはじめ、被災地が復興できるように願ってやみません。




(2011年3月11日東日本大震災 「3・16 福岡到着」・・・終わり)

3・16 秋田から福岡へ 

Posted by yokka on   0  0

3月15日。
仙台から山形へ向かうバスの中で、偶然隣り合わせた韓国の大学生。
彼が、日本のことについて私に質問したことのひとつが、

「こんな地震や、放射能の状態になって日本は復興できると思いますか?」と。

私は、無意識のうちにこんな返事をした。

「できると思う。戦争をし原爆を受けても、それを乗り越え、これだけの国になったんだもの」

ほとんど即答に近かった。なんの根拠もないのに、
日本人の力を信じている自分に、答えた後に気付いた。

その時は放射能というものについて、甘く考えていたからとも言える。
地震や津波の被害からは、時間がかかっても、
またきっと街がよみがえることができるだろうと想像できた。

今は、放射能がまき散らされる前の安心できる日本に戻るには、
予想以上に困難で、時間もかかるだろうと感じている。

そして、今日は8月9日。長崎へ原爆が落とされた日だ。
長崎に祈り、東北で亡くなった命に祈り、
そして今ある命のために、明るい日本の未来を祈りたい。


今日は、3月16日朝からのできごとです。

********************************

 ( 3月16日 早朝5時 酒田駅前ホテルにて )


どのくらい眠れたかわからないが、余震もなく穏やかな室内に
目を開けた時、安心感があった。

5時に目覚め、出発準備を始める。
今日は予定通り行けば、午後には福岡に帰れる。

荷物を詰めて、準備を終え、朝食開始時間には少し早いが、
前日にホテルの方から了承を得ていたので、朝食を食べに行く。

バイキング形式なので、ここ数日食に飢えていた私たちには
どれもこれも食べたくてしかたがない。
けれど、6時41分の電車なので、6時半にはホテルを出たい。
食べる時間は多くて15分。時間がないので、私は食べれる分だけ少量選ぶ。

夫は我慢しきれなかったのか、あきらかに15分では食べれない量を取ってきている。
案の定、私が先に食事が終わり、ホテルのチェックアウトを済ませ、
移動用の飲み物などを買って、準備し、
もう急いで行かないと間に合わないという頃に、食事を終えて走ってきた。

駅まで駆け足で向かう。6時38分。セーフ。定刻通り秋田行きの電車は発車した。
電車は、日本海側を北上する。車窓からはのどかな風景が続く。
最初車内はまばらだったが、途中から通学の学生たちが乗車し、賑やかになる。

いつもの日常。いつもの時間。いつもの顔。
私たちのような登山ルックでいかにも避難中という雰囲気の人は他にいない。
数日前の私たちに起きた出来事が夢の中のことのように感じる。

乗車して1時間50分。8時32分。予定通り秋田駅に到着。
空港へのリムジンバスの時刻がわからないので、
急いでバス停を探し、これまた駆け足。

8時40分。バス停到着。もうすぐバスが来る予定なので、
羽田行きの飛行機、10時45分発に間に合いそうだ。
秋田駅から秋田空港まで通常35分ほどかかる。いずれにせよ、時間に余裕がある。

と、思っていると、バスが来ない。
遅れているのだ。しばらく待ってようやくバスが来たが、
発車してしばらくすると渋滞につかまった。
どうやら、途中片側1車線の道で、ガソリンスタンドがあり、
そこに並ぶ車の列で車が通れず、身動きできなくなっていた。

バスの中で、これは間に合うのか?とあせり始める。
察したようにバスの運転手さんが、
「空港には渋滞していることを連絡してますので、安心してください。」とアナウンス。
しかし、飛行機が待ってくれるとは限らないのでは?と疑いの気持ち。

市街地を外れると、車線が多くなり、スムーズに走り始める。
けれど、行けども行けども空港らしき雰囲気が見当たらない。
知らない場所へ向かうとき、帰りの道は早く感じるのに、
行きの道はどこまで行くのかとやたら時間が長く感じるものだ。

10時過ぎ。秋田空港に到着。
急いでバスを降り、チェックインカウンターへ向かう。
空港内は、人がごった返している。外国人も多い。
手荷物と預かり荷物を分けないといけないので、空いている場所を探して、
必要なものを小さなバックに詰め替える。

人の列をみて、チェックインに時間がかかりそうだとあせっていると、
係の人が、クレジット払いの人は機械でできるのでと誘導してくれる。
チケットの予約を取ったとき、自分のカード番号を叔母に伝えておいて良かったと安堵。
無事にチェックインでき、搭乗口に向かう。

すでに搭乗が始まっていたので、お手洗いを急いで済ませて、列に並ぶ。
ここで、また声をかけられる。日本人の女性とインド系の女性。
どうやらインド系の女性が一人で私たちと同じ羽田行きの飛行機に乗るのだが、
日本語があまり喋れず、一緒に搭乗してほしいと頼まれた。
日本人の女性は見送りに来ただけのようだった。

わかりました。と伝えて、インド系の女性と一緒に並ぶ。
セキュリティチェックがあるので、
飲み物やPCなどを持っていないかと彼女に聞いて、
どちらも持っているというので、バックから出して準備するように(夫が)伝える。

順番がせまってきていたので、彼女も慌てている。
大丈夫だからと、とりあえず、一緒に行き、
セキュリティチェックを終えて、彼女が荷物を片付けるまで手伝う。

搭乗は優先搭乗で、私たちは後列、彼女は前列だったので、私たちが先で一緒にいけない。
周りを探すと、一人の日本人女性が壁際でチケットを手に立っている。
きっと前方の席なんだろうと予想がついたので、声をかける。
聞くと案の定、インド系の女性と席が近かった。

「この(インド系)女性が、日本語が得意ではないようなので、一緒に搭乗してもらえますか?」

と言うと、快く一緒にいてくれることになった。
(日本人の)彼女が一緒に連れてってくれるから、とインド系の彼女に伝えて別れた。

つくづく、私はよく声をかけられる。
国内でもそうなのだが、ソウルに行ったときでさえ、何度道を尋ねられたかしれない。
話しかけてオーラ、でも発しているのだろうかと自分で笑える。
そして、その現場を度々目撃する夫もいつもウケている。

そして、10時45分。秋田から羽田へ向けて飛行機は飛び立った。
まずは羽田へ向かうという今日の目的が一つ果たせた。



(2011年3月11日東日本大震災 「3・16 秋田から福岡へ その1」・・・終わり)


3・15 福岡へ帰ろう その3

Posted by yokka on   0  0

現在の日本では、被ばくした子供たちをきちんと診察できる小児科医が少ないという
内容を読みました。今までに診察例がないからだそうです。
チェルノブイリで診察経験のあるお医者さん達と連携することを希望されていました。

一部では低線量被ばくによる体調不良を懸念される声もあるようで、
放射能と関係があるかないかは、おそらく時間をかけての研究などによるのでしょうが、
子供が原因不明の体調不良になることほど、
お母さんたちにとって不安が大きいものはないでしょう。
すでに後手後手でしょうが、放射能に対応する医療体制を早急に整えて欲しいものです。

そんな内容をみて、改めて原発のいきさつやチェルノブイリの状況などが知りたくなり、
原発関連の本を読み始めました。

色々思うところはあるのですが、原発に対して無知であった、
もしくは知らされずだまされたという前提は一旦外して、
もちろん最後まで先祖代々の土地を渡さぬよう努力した方々もおられることでしょうし、
色々な理由がからんで、身動きが取れなかったこともあるでしょう。
ただ、あきらめや妥協の中にも、最終的には原発を受け入れることになったのは
一瞬「自分たちは幸せになれる」と、思えたからではないかという気がしました。
(あくまでも私が感じた印象です。)

お金がもらえる、職がもらえる、道路ができる、税金が少なくなる・・・

人によって受ける形は違えど、結果的には、
裕福な暮らし、利便性のよい町、地域の繁栄。
どれも、誰もが描ける当たり前の幸せに思えます。

そんな「普通の幸せ」が、「安全な原発で」叶うと思っただけなのに。
その代償は一瞬の過ちですべてを奪うことになるかもしれないなんて。
無責任に原発を推進してきた人達が恐ろしい・・・・。

転勤族の私たちは、原発のない場所ってどこかしら・・・と数年前、
こんな状態になることなど夢にも思わない頃、地図上で探したことがあります。
ほとんどないのです。原発の息の根がかからないところなんて。
日本中原発だらけに驚き、どこも同じか・・・と
諦め気分になったたことを覚えています。

ちなみに札幌市の私の家から一番近い原発は、泊原発。
直線でおおよそ70キロ圏内。

以前住んでいた岩沼市は、福島原発から80キロ圏。
函館市は、大間原発から、海を挟んで30キロ圏内です。

親、兄弟、親戚、祖母・・・多くの知人が暮らす
福岡市や、佐賀市に一番近い原発は、玄海原発。
どちらの市も直線でおおよそ40キロ~50キロ圏です。

福島の事故での関東の影響を見ると、
風向きなどで一概に距離では言えませんが、
それにしても、どこも絶対安全とは言えない場所です。

そして今住んでいる北海道にも、故郷の九州にも
大好きな豊かな自然があちらこちらにたくさんあります。
美味しいものも、数えきれません。
「人間はいつか死ぬんだし・・・」などと、あきらめている場合ではない。

せめても自分の家に一番近い原発の状況に関心をもつ時期なのかもしれません。
まずは知りたいと思うことから。


今日は、3月15日のできごとの続きです。

********************************

 (3月15日 15:40 山形 山交BC到着)

偶然にも仙台からスムーズにバスに乗り、山形市内に無事に到着。
実は半年ほど前、ふと思い立って山形県を車で一周する旅をしたばかりだったので、
山形の地理は大まかに頭に入っていた。

そして友人から、秋田で電車が動いている可能性があるとの情報があった。
家から破り取ってきた東北の地図を見ながら交通機関を探す。
そこから考えると、山形から日本海側の鶴岡や酒田まではバスがあるし、
酒田から日本海側を通る秋田方面への電車が確かにあった。

地震の影響で運行状況はわからないが、今の時点の選択としては一番確実に思える。

山交BC前でバスを降りると、また目の前に人の列があった。
なんの列かと尋ねると「鶴岡・酒田行きのバスに並んでいる」という。
列の先頭は見えず、どれくらいの時間になるのかわからないが、並べばいつか乗れる。
最後尾を探して、とりあえず並ぶ。

並んでいる間、時間的に今日は酒田までぐらいが限度かと思い、
念のため酒田駅周辺のホテルを予約して抑えておくことにした。
距離感、時間、地域の情報など、以前の旅行で得ていた知識の一つだった。

そして、酒田から秋田まで電車で行けるか、どのくらい時間がかかるかも
携帯が使えるので検索する。
おおよその移動時間は確認できた。電車が動いているかどうかは、
酒田に行ってから直接確認するしかないだろう。

そして秋田空港を目指すからには、より確実に移動するために、
できれば航空券を抑えたい。
夫の知り合いに予約を頼もうとするが、相手は仕事中のようで連絡がとれない。
そんな時、九州へ向かうことを伝えていた私の叔母からメールが入った。

叔母メール:(今どこにいるの?空港は決まった?)
私:(山形までバスで来ました。酒田に向かうバスに並んでます。)
私:(秋田空港に向かう予定ですが、チケットがまだ手に入っていません)
叔母:(空席を調べてまた連絡するから)

・・・・・

叔母:(九州への直行便はないから、羽田経由で乗り換えなら少し席がある)
叔母:(早くしないと席が埋まりそうだから、どうするか連絡をして)

そんなやり取りをしている最中に、予想より早くバスに乗れる順番がきた。
どうやらこの状況なので、臨時便が増発されているようで、バスがたくさん来ている。
バスの料金を払って、荷物を荷物置き場に載せて、とあわただしくしているので
叔母への返事ができない。叔母からは催促のメールが続く。
とりあえず、バスの中に入り、席に座ってメールを開く。


( 16:00 鶴岡酒田行きバス 山交BC出発 )


私:(今、鶴岡酒田行きのバスに乗れました。)
私:(今日は時間的にも、酒田まで行ってみます。ホテルも予約入れてます。)
叔母:(明日なら秋田空港の何時の便に間に合う?)
私:(予定通りで行けば10時半には秋田空港に到着できるはずなので、それ以降で探してください)
私:(私と夫のマイレージ番号とカード番号を送るので、そのまま予約を取ってください)

そこまで連絡したところで、バスが山間の高速道路に乗ってしまったので、
携帯が圏外になり連絡が取れなくなった。
窓の外を見ると、辺りはすでに真っ暗。
しかも辺り一面雪景色で、吹雪いている。やはり日本海側は雪がまだ多い。
おそらく、道路には1メートル以上の積雪が残っている。

バスの中は相変わらず満席で、先ほどよりもさらに緊迫感がましている。
さすがの私も飛行機のチケットが予約できたかどうかが心配で、黙っている。

携帯の電波が復活。
叔母:(チケット予約できました。秋田‐羽田‐福岡です。詳細を後で送ります。)
私:(ありがとうございました!!!!)

とにかく、チケットが手に入ったことがほっとした。
後はなんとしても時間までに秋田空港にたどり着けば福岡まで帰れる。
そう思ったら、人間不思議なもので、今日の夜は何を食べようかなと考え始める。
いつものくせで、携帯の食べログで酒田駅周辺を検索していたら、夫が

「こんな時にも、RaRa。らしいね。」と爆笑している。

確かに、無意識にいつもの行動をしていた自分が恥ずかしい。


( 19:40 酒田BC到着 )

酒田は雪が止んでいた。ホテルは酒田駅近くだったので、そこまで少し歩くが、
その前に駅に寄って、明日の電車の状況を確認しておかなければ。

電車は秋田方面は通常通りに運行していた。
早朝6時41分 羽越本線 秋田行きに乗れば、
秋田駅からエアポートリムジンに乗って秋田空港へ時間内に行ける。

チケットを二人分購入して、予約していたホテルへ向かった。
ホテルは地震の影響で節電しているというが、電気もお湯もすべて通常通り使えた。
地震以来お風呂に入っていなかったので、まずは何をおいても先にシャワーを浴びる。

そして、食事はと言えば、岩沼を出る前におにぎりを食べただけで、
持っていたお菓子類で今の時間まで過ごしていた。
ホテルの1階に居酒屋のようなものがあったので、そこで夕食をとる。

私たち以外は、みなビジネスマンという感じでのんびりした雰囲気だ。
久しぶりのちゃんとした食事。普通の居酒屋料理が夢のようなごちそうに思える。


( 23:00 )


部屋で寝る準備を済ませ、明日の朝も早いので眠りたいが、
今朝からの緊張状態で一向に眠気がない。
明日はまた朝から移動し、うまくいけば、夕方には福岡に着ける。
まだまだ気を緩める気分ではない。
羽田を経由するので、原発にこれ以上被害が大きくならないことを祈る。

今朝からの出来事を二人でしゃべっているうちに、少しだけ眠れた。


(酒田駅付近ホテル 一泊)



(2011年3月11日東日本大震災 「3・15 福岡へ帰ろう その3」・・・終わり


このカテゴリーに該当する記事はありません。