日々、積笑

笑って過ごせる毎日

3・13 水の確保

Posted by yokka on   0  0

地震の翌日、福島の原発が爆発を起こした。

爆発のことをいつの時点で知ったのかを書き留めていなかったので、
正確な日時がわからないが、おそらく電気が復旧しテレビを見てからだと思う。

それを知った時、自分が食糧を買うために
6時間外で並んでいたその時間帯だったと思い当り、
南風が強かったあの日を想像して、なんとも言われぬ不安感が襲って来た。

(被ばくしたかもしれない)

まず想像したことがそれだった。
原発のこと、放射能のこと。ほとんど知識がない。ただただ怖いと感じた。

テレビでは「ただちに健康に~ほにゃらら」と繰り返し安全を強調していたが、
そんなはずはないと、全く信用できなかった。
おそらくチェルノブイリのことが、少しだけ私の中に情報があったからだと思う。

何に気をつけ何に注意したらよいのか。
専門家といわれる人、なんとか大学の教授、口をそろえて「安全」という。
「安全」を信じていないので、「注意しろ」という人をおのずと探してしまう。

そして見つけた一人が中部大学の武田邦彦先生。
ブログを見て、色々参考にさせてもらっている。

こと原発や放射能に関しての情報は、程度も内容も様々なので、
どこから出た情報なのか、信じられる情報なのかと
慎重に確認しないと危険だと感じている。

あくまでも専門科であること、
発信したご本人が情報(データなど)を自分で調べる手段を持っていること、
またその個人や団体がどういう実態であるかなど、
できるだけ色々な方向から情報を見るように心がけている。

いまはなぜか、「安全」と「危険」の間に「危険ではない」の3択の世の中だ。
そしてその3択を自分で判断しなければならない。
少なくとも私はこれからも「注意しろ」という人の話に耳を傾けると思う。


■武田邦彦(中部大学)ブログ http://takedanet.com/


今日は、3月12日の夜から13日の出来事です。

********************************

 (3月12日の夜 停電中 自宅にて)

相変わらず停電中の家は、次第に薄暗くなってきた。
余震も続いている。そのたびに、玄関のドアを開けに走る。

何かあったときすぐに逃げ出せるよう、念のため玄関に近いリビングで寝ることにし、
懐中電灯やラジオ、必要最低限の荷物を詰めたリュックをそばに置く。

夕方6時ぐらいだが、とりあえず寝るしかない。
昨夜はほとんど寝れず、さらに今日は一日中、外に立っていて、
足はこわばり、疲れきっているはずだが、興奮状態で目がさえている。

やっとお互いの話をし始めた。
主人は海沿いが職場だったため、津波にあった。

津波は想像とは異なり、ゆっくりやってきたそうだ。
津波警報を知り、職場の屋上に上り海の方を見ていたら、
黒いものがどんどん近くに押し寄せてきた。
なんだろうとみていると、家の屋根、材木、看板、店、車などが押し寄せてきた。
テレビの映像どおりだが、波ではなく、物の塊であることが怖かったと言っていた。

未だにこのことを想像すると涙がでてくるのだが、
その中には人もいて、離れていてとても助けることができる距離ではなかったそうだが、
いつのまにか波にのまれ沈んでしまったそうだ。
私はこの話を聞いただけで、実際に見てはいないのに、
私の頭からはその時の映像を見ていたかのように感じられ、苦しくなる。

・・・・

主人の職場には毛布などがなかったので、部屋にあったもので段ボールを床に敷き、
遮光カーテンを毛布代わりにして一夜を過ごしたそうだ。
そして、うちの車が流された時のこと、連絡を取ろうとしていたが取れなかったこと、
翌日、職場から歩いて帰ってきた時の様子などを聞いた。
私も地震が起こってから、夫に会うまでのことを話した。

結局その夜も、余震であまり眠れなかった。

翌朝、地元のラジオ局を聞いていると
7時半から岩沼市内3か所で給水があるという情報が流れた。
一番近い岩沼市役所に行ってみることにした。

ちなみにその時点での我が家の水の状況は、飲料水2Lのペットボトルが3本。
夫がダンベル用に使っていた2Lの水入りペットボトルが2本(中の水は何カ月も前の水道水)。
お風呂に残っていた少しの水。飲料水以外は、トイレ用に使用していた。
ちなみにトイレはその都度流せないので、ある程度の回数の後、まとめて流していた。

さて、給水に行くには、水を入れるものが必要になる。
うちには以前函館時代に湧水を汲んでいた10Lと20Lの水タンクがあった。
それとアウトドア用の2Lの袋が2つ、ジュースの空きペットボトルが2つ。

市役所は近いと行っても、車がない。
自転車で自分たちで持って帰れる分しか運べない。
夫の大きなリュックに10Lのタンクを入れ、こまごました容器を私のリュックに入れた。

13日朝 8時40分 市役所到着

市役所に来る途中の道は大渋滞。
どうやらガソリンスタンドにならんでいるようだが、スタンドが開いてない。
市役所前の体育館には、津波で亡くなった方のご遺体が安置されていると聞いた。
体育館の方を向いて、そっと手を合わせご冥福を祈る。

そして、すでに市役所前は給水を待つ人で大行列。
前日に続いて、また列に並ぶ一日が始まった。
水のタンクを持っている人もいるが、ほとんどがあり合わせの容器だ。
バケツにビニール袋をかぶせていたり、ポットや鍋の人もいる。

並ぶ列は蛇行し、ちょっとづつしか進まない。
途中、豆腐屋さんの車が来て、お店が開けられないからと、豆腐を配り始めた。
私たちもひとつもらった。ありがたかった。今思えば、少しでもお金を払えばよかった。
そのままご厚意に甘えてしまった。豆腐はその日においしく頂いた。

天気は晴れ。屋根のない広場は日差しが強く、風がないため前日と違い暑い。
化粧をしておらず、日焼け止めも忘れていたので、暑いが完全防備。
列はなかなか進まず、待つ人は地震からの疲れといら立ちが見て取れる。

そんな中、なぜか列が自分の前ではなく、横に動いた。それも一斉に。
結果、どうなるか。列がぐちゃぐちゃ。
誰が誰の後ろだったのか、さっぱりわからなくなった。
すでに何時間も並んだ状態で、この有様。
割り込むな!どうなってるんだ!と一触即発の状態。

市役所の人らしき人を探して、「危ないので、列を整えてください!」と伝える。
しかし、役所の人も一人だけ。
これだけの大人数を統制できる訳もなく、ただただ平謝りで解決しない。
結局、このままでは水をもらうことができなくなるので、
並んでいた年配の男性たち数人がロープを使って列を作りなおしてくれた。
列の順番はぐちゃぐちゃで不満を言う人もいたが、
とりあえず、乱闘騒ぎになる前に収まってよかったと思った。

水は制限があり、一人6Lだった。夫と2人分で12L。
私たちの順番が回ってきたのは、14時30分。
前日と同じく朝から並んで約6時間だった。

水は給水車からホースが出ていて、自衛隊の人に容器を渡すと水を入れてくれた。
私たちの後ろにも朝と変わらない人の列がまだまだ続いていた。

並んでいたとき情報の収穫があった。
私たちの前に並んでいた人と話していたら、車で15分ほど行った場所のスーパーが
購入制限なしでお店を開けているという。商品もそこそこあると。
明日は朝一番にそこのスーパーまで出かけてみようと夫と話す。

アパートに戻ると、小さな子供さんがいる家庭や、
自転車や車などの交通手段がないなど、水をもらいに行けない家庭もあったので、
ペットボトルの水を持って、近所の家を回り、水はあるか確認した。
今のところ大丈夫だという家庭が多かったので良かったが、
必要な時は分ける分があるのでいつでも言ってきて下さい。と伝える。

家に戻り、あるもので昼食を済ませる。
水はとりあえず確保した。次は食糧だ。
明日の買い物に備えて、家にある食糧を確認しなければ。
3月末に引越しを予定していた我が家には
引っ越し用にもらっていた段ボール箱がちょうどあった。
組み立て、その中に家にある全ての食糧を集める。

米、もち、そうめん、マカロニ、缶詰、シリアル、カロリーメイト、
のり、わかめ、カレーのルー、ふりかけ・・・・

ガスが使え水が少しあるので、この食糧でとりあえずしばらくはなんとかなりそうだが、
スーパーが営業しなくなると、とたんに食糧が減り始めることは明らかだ。
地震で物流が止まっている以上、長期戦に備えて食糧を考えなくては。

水を無駄にできないので、鍋もフライパンもペーパーで拭きとるだけ。
食器は汚れないようにラップをして、これも拭きとるだけ。
ただ、ゴミをため込むといつ捨てられるかわからないので、ゴミもできるだけ少なくしたい。

まだ電気もつかない。
ランタン、ラジオの電池もそれほど多くの予備はない。
水、食糧、電気。今はどれも限りがある。
普段いかに何不自由なく生活しているかがよくわかった。

明日は、朝一番でまたスーパーの列に並ぶ。
当然ながら風呂も入れない。
夕方6時過ぎ。今日も夕闇とともにラジオを聞きながら、横になる。


(2011年3月11日東日本大震災 「3・13 水の確保」・・・・終)

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